浜松の企業の素晴らしさ

浜松に浜松テレビという会社が創業されたのは1953年(昭和28年)です。

浜松はテレビ発祥の地とも言われています。

1926年12月25日、浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)の実験室で、高柳健次郎博士が世界ではじめてブラウン管に映像を映し出すことに成功されました。

その高柳健次郎の門下生として浜松高等工業学校電気科で学んだ堀内平八郎さんは、高柳さんからの指導などを受けて、第二次世界大戦中は、東京、工場の疎開先の山形で暗視管の開発や製造に取り組んでいたが、終戦を迎えて再出発を余儀なくされ、戦後の混乱期に浜松に戻り、光電の技術を生かそうと決意されて、昭和23年(1948年)に浜松市海老塚町456番地に工場用地を得て『東海電子研究所』を設立されました。

昭和26年(1951年)の初頭に堀内が最初に手がけた光電管が有望な引き合いを獲得し、成功の兆しを見せ始めたとき、実兄の高橋祐二(浜松高等工業学校教授)を通じて交流のあった晝馬輝夫、羽生紀夫に呼びかけて新会社設立に動いて『浜松テレビ』が誕生しました。


浜松テレビのテレビジョンの科学分野、産業分野への応用は、魚礁観測用水中カメラの制作唐始まりました。

その後、昭和33年(1958年)にテレビのブラウン管の輝度調整用としての半導体製品CdSの大量注文が舞い込んだことが、初めて体験する大量生産で、従業員を総動員して生産にあたり、半導体技術の蓄積や、会社一丸となって昼夜生産にあたることで社内の結束が高まるなど、さまざまな成果をもたらしました。

その後、光電子倍増菅の開発、赤外線用テレビカメラ発売、ロケット自動追尾装置の開発、テレビカメラを用いた瞳孔面積計測装置開発、電子管の開発、コンピュータ用ビジコンカメラ開発、などなど、多数の製品を開発されました。

そして昭和58年(1983年)に社名を浜松ホトニクスに変更されました。

ノーベル物理学賞を受賞した小柴さん、梶田さんが運用されたカミオカンデやスーパーカミオカンデで使われている大口径光電子倍増菅は浜松ホトニクスの技術力によって作られたものです。

浜松は楽器の街、オートバイの街と言われていますが、今のようにテレビを見られるようになった一つの技術が浜松から出発しているということを改めて学ばせていただきました。

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2024年10月20日