劣等感について‼️

アドラーの教え、嫌われる勇気より


劣等感は誰にでもあるものだとアドラーも認めています。

劣等感それ自体は、悪いものではありません。


私たち人間は無力な存在としてこの世に生を受け、その無力な状態から脱したいと願う欲求を持っています。


『向上したいと願う』 『理想の状態を追求する』などです。


その時、理想に到達できていない自分に対して、まるで劣っているかのような感覚を抱きます。



アドラーは、『優越性の追求も劣等感も病気ではなく、健康で正常な努力と成長への繁樹である』と語っています。


こうした劣等感にはなんの問題も ありません。


ところが、一歩踏み出す勇気をくじかれ、『状況は現実的な努力によって変えられる』という事実を受け入れられない人たちがいます。


なにもしないうちから『どうせ自分なんて』とか、『どうせがんばったところで』とあきらめてしまう人たちです。


これは劣等感ではありません


劣等コンプレックスです。


この『コンプレックス』という言葉が、『劣等感』と同義であるかのように使われています。


本来コンプレックスとは、複雑にからみあった倒錯的な心理状態を表す用語で、劣等感とは関係ありません。


『劣等感』それ自体は、別に悪いものではありません。


劣等感は努力や成長を促すキッカケにもなりうるものです。


学歴に劣等感を持っていたとしても、そこから『私は学歴が低い、だからこそ、他人の何倍も努力しよう』と決心するとしたら望ましい話しです。


一方の『劣等コンプレックス』とは、自らの劣等感をある種の言い訳に使いはじめた状態のことを示します。


本来はなんの因果関係もないところに、あたかも重大な因果関係が、あるかのように自らを説明し、納得させてしまう。


問題は、そうした現実にどう立ち向かうかなのです。


もし『私は学歴が低いから、成功できない』と考えているとしたら、それは『成功できない』のではなく、『成功したくない』のだと考えなければなりません。


『一歩前に踏み出すのが怖い』、また、『現実的な努力をしたくない』。


いまの楽しみ、例えば遊びや、趣味の時間を犠牲にしてまで変わりたくない。


つまりライフスタイルを変える『勇気』を持ち合わせていない。


多少の不満や不自由があったとしても、いまのままでいたほうが楽なのです。


(劣等感についての一部抜粋)
アドラーの教えを書いた『嫌われる勇気』参照
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20232월 9일 -